令和元年度大会 報告 [2020/04/01 更新]
令和元年度民俗芸能学会地方大会は、11月30日(土)、12月1日(日)の両日、新潟県長岡市の新潟県立歴史博物館講堂を会場として開催された。
1日目は、にいがた文化遺産活用推進プロジェクト実行委員会・新潟県立歴史博物館・佐渡郷土文化の会・瞽女唄ネットワーク主催、民俗芸能学会特別協力により、「佐渡文弥人形」「越後瞽女唄」の公演鑑賞の後、長岡グランドホテルにおいて懇親会が行われた。
2日目は総合司会の小川 直之 氏の開会の挨拶で始まり、会員の研究発表、昼の評議員会と順調に進み、午後は一般公開の「公開シンポジウム」に続き、本田安次賞授与式、総会が行われて、閉会した。
1日目の芸能鑑賞は150席満席(うち会員は44名)、別室にてモニターによる鑑賞席が用意された。2日目の研究発表・一般公開シンポジウムの参加は全体で92名であった。
2日目【12月1日(日)】
研究発表
・神野 知恵
氏
「伊勢大神楽の回檀における笛の機能」
本発表では、西日本一帯において現在も回檀を続ける伊勢大神楽について、とくにその笛の特徴に注目して論じた。発表者は調査を行うなかで、神楽師と回檀先の地域住民の双方が大神楽の笛の音を強く意識していることに気付き、笛が回檀地において大神楽への信仰心や親近感を強めるのに大きな役割を果たしているのではないかと考えた。そこで本発表では、まず伊勢大神楽の回檀における笛の使用方法を把握した。大神楽の回檀において笛が担う役割は獅子舞や曲芸の囃子だけでなく、地域の人々に大神楽の到来を知らせたり、神楽師同士が仕事内容を伝達する際に特定の旋律や音を使用するなど多様である。
そうした笛の音に対する回檀地の人々の印象や記憶、時代による聴こえ方の変化については、地域の人々の言説や市町村誌への記述を紹介した。さらに、神楽師が回檀先で地域住民に笛を教えたり、笛(楽器)を譲渡することによって、地域の芸能との間に関係が生まれたり、芸の伝播に発展する事例についても論じた。
質疑では、神楽師の役割分担や、社中による旋律の違いなどについての質問を受けた。また伊勢大神楽研究者の黛友明氏からは、笛の譲渡などによる影響関係を既存の「伝播」という枠組ではなく、別の概念で説明する方が良いのではないかという意見を頂いた。入江 宣子 氏からは、大神楽から芸の伝授を受けたり大神楽の笛を使用している団体への調査を今後深めるよう助言を頂いた。
・木内 靖
氏
「円蔵神楽と禊概念」
安政6年(1859年)、相模国愛甲郡愛甲村(厚木市)の神事舞太夫 萩原 英之進は、幕府の寺社奉行配下の神事舞太夫頭 田村 八太夫から相模国一国の配札権が公認された。文久2年(1862年)、萩原は、相模国を三浦・円行(藤沢市)・平塚・小田原・延沢(開成町)・座間の六組に分け、各々の神事舞太夫頭を統括し、愛甲神楽と呼称された芸能形態を創設した。この愛甲神楽の傍系が高座郡円蔵村(茅ヶ崎)の円蔵神楽である。明治から昭和にかけて茅ヶ崎市円蔵の高橋鯛五郎が伝承していた円蔵神楽と、地元では古くから「禊」と呼称された茅ヶ崎海岸浜降祭における禊概念の成立と展開を追うことにより、両者の関係性に差異が生じた事情について考察した。円蔵神楽興行と関連して、湘南海岸地区の神社祭礼の神事芸能である「浜降り(浜下り)」の系譜とその特性についても紹介した。
質疑応答では、「とても興味深く拝聴しました。この地域の民俗信仰がなぜ八幡信仰と結び付くのかがよくわかりませんでした。」木内「東海道筋の幸若舞系統の芸能民が相模川川止めの際、南湖鳥井戸周辺に臨時の宿場(鶴嶺八幡宮の門前町)を形成して、神社縁起と結び付けて触れ回っていたと考えられます。」
「円蔵神楽の旦那場が陰陽道の旦那場と重なっている点がとても興味深いと思います。この点について他に何かご存知でしたら教えていただきたい。『(明治の巡査)日記』などがあります。」木内「その点については不勉強で申し訳ございません。貴重なご指摘有難うございます。」などのやりとりがあった。
・大山 晋吾
氏
「宮崎県日南市下方における神楽の伝承組織と演目構成」
発表では、宮崎県日南市下方に伝承されている九社神社神楽を対象とし、その伝承組織の変遷と神楽の演目構成について考察を試みた。論点は次の通りである。まず伝承組織の変遷から、(1) 日南市における神楽伝承の主体は社人(各神社付属の伶人)にあり、九社神社神楽においては人的(保存会)・金銭的(御砂の収益)な負担の軽減によって多数の演目を維持していること、(2) 伶人としての社人組織の形成には、飫肥県から宮崎県にかけての明治初期の廃寺と神葬祭への改葬が関係していること、の2点を挙げた。
次に演目構成の検討から、(1) 日南市の神楽は南九州の神楽の中でも「岩戸開き」演目の比重が高く、演目組替の形跡が確認できること、(2) 旧飫肥藩領のうち、北郷村、南郷村にかけては唯一神道の教理が御神屋の形態に影響していることの二点を挙げた。
質疑応答では3名の方からそれぞれ(1) 唯一神道の影響を受けていることの理由として神職家の文書を引用しているが他に神道裁許状などはあるか、(2) 社人と神社との関係性はどのようになっているか、(3) 九社神社神楽は日南市の神楽の中では最大の演目を保持しているというが、その根拠は何か、について質問をいただいた。貴重なご教示であったので、今後の研究の参考としていきたい。
・黛友 明
氏
「神事と遊芸の葛藤 ― 伊勢大神楽における宗教団体化 ―」
国指定重要無形民俗文化財である伊勢大神楽(三重県桑名市)は、獅子舞と放下芸を有する神事芸能である。担い手は、太夫名を世襲する親方と子方による「組」を単位に、一年を通じて近畿・北陸・中国地方に分布する檀那場を巡回して芸能を行っている。
本発表では、伊勢大神楽の担い手組織が、1940年に施行された宗教団体法下で「宗教結社神道大教伊勢大神楽講社」として届出し、宗教団体化したことの背景と意義を史料に基づいて検討した。これは、現在の「宗教法人伊勢大神楽講社」へとつながるターニングポイントと考えられる。
まず、宗教団体化の前提は二つあった。ひとつは、明治維新によって崩れた伊勢大神楽の組織が、遊芸稼人鑑札を受けての活動が安定化したことで、同業組合として再編されてきていたことである。二つ目は、太夫が個人として教派神道に所属していたことである。
宗教結社として届出したことによって、伊勢大神楽は「公益事業」として神楽奉納を行うとともに、銃後奉公会・国防協会・国防婦人会などに献金を行っていた。このような活動は、戦時下の「動員」である一方で、伊勢大神楽と地域社会の継続的な関係があってこそ実現したものであった。最後に、宗教団体法による戦時下の統制が、伊勢大神楽講社にとってはむしろ活動の正当性を担保してくれていたと戦後に振り返られていたことを確認した。
宗教団体化は従来の「遊芸」という位置付けから脱却し、宗教(神事)のほうへと向かうことで、活動の拠り所としようとしたものだったといえる。
質疑応答では、宗教団体化の経緯が、現在の伊勢大神楽の実践や担い手の意識とどのように関わっているのかが論点となった。今後の課題としたい。
・高久 舞
氏
「民俗芸能を『記録保存』する県行政の役割と意義 ― 神奈川県を事例として」
本発表では、現在神奈川県で実施している民俗芸能記録保存調査を紹介するとともに、県内民俗芸能の現状を把握し、「記録」について整理したうえで、伝承団体、行政それぞれの立場での「保存」に対する認識の考察を行った。
神奈川県内の民俗芸能は、伝承者団体による連合組織が1960年代より発足し、現在も各市町村で民俗芸能大会を実施するなど、民俗芸能の公開についても積極的に取り組んでいる。民俗芸能に関する記録を確認すると、県教委が刊行している報告は永田 衡吉『神奈川県民俗芸能誌』(1968)を抜粋する内容で大半であり、半世紀前の永田の調査に拠っていることが否めない。一方で、市町村では偏りはあるものの民俗芸能の調査報告書は刊行されており、特に1970年代以降は映像記録も蓄積がある。
現在実施している民俗芸能調査事業では、「記録保存」を行うことにより、県内の民俗芸能の保存・継承の基礎資料とする」とその目的が明示されているが、民俗芸能の「保存」について行政と伝承者で認識の相違がある。特に、数年単位で担当職員が変わる行政において、「記録」と「保存」についてきちんと示しておかなくてはならないことを指摘した。他地域も同様であろうが、神奈川県においても民俗芸能の後継者不足は、伝承者の大きな悩みであり、彼らの望みは「保存」ではなく「継承」である。行政側が「記録」することで「保存」したとならぬよう、(1) これまでの文字記録・映像記録を整理し公開すること、(2) 県と市町村のネットワークを構築すること、(3) 研究者と行政とのネットワークを構築することを行政の役割として指摘した。
質疑応答において、県内で最も早く発足した神奈川県民俗芸能保存協会は、伝承者、研究者、行政で構成された連合組織であり、1969年の発足当時から今回示したネットワークが築かれていたことをご指摘いただいた。現状のみに視点をおいていたが、神奈川県民俗芸能保存協会発足の経緯や当時の県内の状況についても改めて研究する必要がある。
公開シンポジウム
「民俗芸能と宗教の関係を問い直す」
コーディネーター:小川 直之 氏
今次大会では標題のテーマで公開シンポジウムを開催し、会員ほか県内外から一般参加者があった。このテーマは大会実行委員長の鈴木 昭英 氏の提案で立案され、その趣旨は次の通りである。
民俗芸能の成立と持続については、仏教・陰陽道・修験道・神社神道などさまざまな宗教や民俗信仰と密接な関係をもつと考えられ、従来から多くの研究・議論が行われてきた。しかし、現代社会においては諸宗教・民俗信仰と実生活とは乖離的傾向にあり、また、芸能自体は宗教とは無関係にその演技性や耽美性が重要であるという考え方も存在する。
こうした状況を鑑み、改めて語り芸能と神憑り、念仏系芸能と仏教、神楽と民俗信仰などの側面からの報告と討論によって、民俗芸能と宗教・民俗信仰との関係性を考え直したい。この趣旨のもとで鈴木 昭英・坂本 要・櫻井 弘人のパネリスト3名が報告を行い、質疑応答を行った。
・パネリスト:鈴木 昭英
氏
「来訪した瞽女さ、実は神様だ」
柳田 國男は「越佐偶記」に座頭や瞽女の遊芸は口寄せの術から発達したと言っている。
私は昭和45年から越後瞽女の調査を始めたが、庶民が瞽女に熱烈な信仰を寄せていたことが知られた。(1) 子安信仰、(2) 治病信仰、(3) 養蚕信仰、(4) 農産物増殖信仰、(5) 害獣防除信仰である。三味線の音、口からでる唄声、そのほか身につけた一切のものに効験を認めた。
信州飯田瞽女にも会った。飯田瞽女は人の求めに応じ「謹上目覚しの祓い」「コダマ様の祝詞」「弁天様のお経」を詠み、護符を与えた。祈祷宗教者の役割を果たしていた。 長岡市旧山古志村虫亀にある「三味線石」の伝説。雪が降る大晦日の晩、2人の瞽女が一夜の宿を乞うたが断られ、また雪道を歩き出したが寒さで斃死した。翌朝村人が産土神に初参りするとき、山道の傍らに横たわる大石を見た。毎年雪が降る晩になるとその石の下から三味線の音と田植唄が聞かれた。新年をことほぎに来た年神が瞽女に姿を託して現われたもの。昔話「大年の客」にも瞽女が登場する。長岡市などで採話された。年夜に来て宿を乞うた瞽女に、貧しい爺さん婆さんが快く迎え入れ、見返りに小判をたくさん授けられた。やはり年神が瞽女の姿で来訪した。
瞽女集団は師匠への弟子入りに年季制を敷く。年明きぶるまいや名替えのとき、仲間瞽女が列座する中、花嫁姿で師匠と三々九度の杯を交わす。それは擬制的なもので、真実は瞽女守り神の妻となる神婚の儀式であった。東北地方の口寄せ巫女の成巫儀礼にも見られるが、瞽女祝言は瞽女が芸能化する以前の巫女のそれを捨てないで残したものであろう。
以上に述べた事項の根底には瞽女の遊行性がある。長い旅をし、諸方の神仏に手を合わせ苦行をしてきたから人々はその霊験に期待した。それに盲目であることが雑念を入れず、精神が統一でき、神憑りするに有利である。修験や行人は目をつぶったり目隠しをする。だが私は近代瞽女が神憑りした話を聞かない。語り芸を専門とする瞽女は早い時代に神憑り宗教から離れたようである。
・パネリスト:坂本 要
氏
「双盤・ドラマ化された念仏」
双盤念仏は尺鉦とか尺一いう半径一尺もしくは一尺三寸の大きな鉦を横叩きに叩きながら念仏を唱えるもので、もとは双盤の名にあるように二枚鉦を向かい合わせにして僧が叩き、浄土宗の儀礼として成り立ったと思われる。念仏は引声の唱えである。引声念仏に双盤鉦が伴ったのは双盤鉦の出てくる江戸時代の1650年頃と考えられる。この双盤念仏は民間に下降し、法要の一端を担うなどして、独自の叩き方を編み出して現在に至っている。ちなみに関西では鉦講というところが多い。双盤鉦は万治2年(1659年)以前のものが見つからないでいることから、双盤を使う念仏は元禄期前後の寺院法度の制定により関東十八檀林で浄土宗の儀軌として成立したとみられる。
幕末から明治時代にかけて斉藤 真了という名人が出たこともあり、芝赤羽橋閻魔堂・九品仏浄真寺・八王子大善寺・浅草奥山念仏堂などを拠点に講や個人の技芸を競い合うようになる。曲打ち・歌念仏など遊び鉦の要素も強まり、双盤念仏講連中の身内内において芸能化・娯楽化する。このように双盤念仏は入退堂の合図鉦から僧の引声念仏が加わり宗教性が高まるが、民間に下降してから鉦の叩きに演出が加わり、聞かせる念仏になる。さらに個人技芸の錬磨が競いになり、芸能化したともいえるが、参詣者からすると双盤念仏と双盤講は信仰を高めるものとしての宗教性はあるといえる。
・パネリスト:櫻井 弘人
氏
「遠山霜月祭における八幡信仰と御霊信仰」
遠山霜月祭は、遠山氏の御霊を合祀する八幡神社(遠山八社神系八幡神社)で多くが開催されることから、本来八幡信仰と御霊信仰に関わり深いことがわかる。その理由は、当地が鎌倉時代に鶴岡八幡宮寺の信濃国唯一の神領地であったことに起因すると考えられる。
霜月祭の面は10社に合計286面があるが、その悉皆調査と編年的分析によって祭りの変化を追うことが可能となった。それによれば、面は江戸時代初期に誕生し、その後、明治時代にかけて順次数を増していく。そして当初、和田タイプのように水の王・火の王からなる「シズメ原理型」であったものが、寛永17年(1640年)に遠山八社神を挟み込む「御霊封鎖型」の木沢タイプへと変化したようで、延宝4年(1676年)には「御霊調伏型」の上町タイプが生まれた。さらに、上町タイプは宝暦9年(1759年)に中郷、安永10年(1781年)に程野へ、木沢タイプは天保年間(1830~43年)に下栗へと広まった。こうした祭りの再構成と広がりは、飢饉や疫病流行、天災、社会不安などを契機に遠山氏の祟りが強く意識される中で、高度な知識をもった宗教者が介在してなされたと推測できる。
一方、遠山霜月祭は、江戸中期以降、八幡神社以外の神社(非遠山八社神系神社)へも広まっていく。そこでは神社の祭神面が優先され、のちに他の村内の神が追加されていく。霜月祭が遠山氏の祟り鎮めを主眼とする祭りから身近な村内の神々の加護を求める祭りへと、性格が変化していったことが明らかとなる。
第13回本田安次賞贈呈式
令和元年度の本田安次賞は5月末日まで募集され、7月6日、9月7日の選考委員会を経て、
和田 修
氏に本田安次賞特別賞を授与することになった旨、選考委員会取りまとめ役 坂本 要 氏より選考理由の説明がなされ、茂木 栄 氏より賞状・賞金の授与が行われた。和田 修 氏よりご挨拶があり、賞金は学会へ寄付された。なお、本田安次賞奨励賞は該当者がいなかった。
・受賞者および選定理由の詳細は
こちら
以上
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