平成15年度大会 報告 [2004/04/01 更新]
第1日目 平成15年9月14日(日)
会場:新潟県拍崎市市民会館大ホール
基調講演 山路 興造
今年は「歌舞伎」誕生400年の記念すべき年として、各地で多くのイベントが開催されている。出雲大杜の巫女を名乗る「阿国」なる女性が、京都の北野神社境内「かぶき踊り」を始めて評判をとったのが慶長8年(1603年)春のことで、それから数えて今年が400年に当たるのである。
これは当時の貴族の日記や文書に記されるから、歴史的事実なのであるが、阿国が「かぶき踊り」を創始する以前には「やゝこ踊り」という芸能を演じていた。「ややこ」とは幼児の異称であり、本来この踊りは少女の踊りであったらしい。この「やゝこ踊り」が文献に登場する最初は天正9年(1581年)で、官中に参内した芸能者によって演じられている。その翌年には奈良の春日若宮社の拝殿で演じられた様子が日記に書き残されでいるが、この時には「加賀国八才十一才ノ童」とあり、これを「加賀国の8才と11才の童」と読むか、「加賀と国という名の8才と11才の童」と読むかが問題となっている。「国」が女の名なら「阿国」のことに他ならない。
「やゝこ踊り」の一座は、その後あちこちの文献に登場し、各地を巡業したことがわかっている。たとえば天正13年閏8月には駿府城の徳川家康の宴会。翌14年6月には三河深溝(現愛知県額田郡幸田町)の松平家忠である。駿府城の宴会には家忠も出席していたから、恐らくその時に渡りを付けて於いて、東国を巡業して京都へ帰る途中に、家忠の城を訪ねたことが考えられる。
現在柏崎市に伝承された「綾子舞」の芸態は、この16世紀末に登場する「やゝこ踊り」の芸態そのものなのである。これは当時描かれた絵画資料によって証明されている。なぜそのような特殊な芸能が、雪深い柏崎の山中に伝承されたのか、文献に登場する「やゝこ踊り」の軌跡と、絵画資料に描かれた芸態をもとに、「綾子舞」の迫りたい。
シンポジウム テーマ:「いまなぜ綾子舞か」
司 会 : 山路 興造
パネラー: 伊東 勉、林 和利、須藤 武子、和田 修
コーディネイタ: 鳥越 文蔵
パネラー発題要旨
「綾子舞伝承の歴史と現状」 伊東 勉
綾子舞は、いつごろ、歴史的な事情によって、京都から鵜川の地に伝来したのか。江戸期、折居・下野・高原田の座元が盛んに稽古に励み巡業した。そして明治以降、下野と高原田の座元が競い合い、盛衰のあゆみをたどり、戦後、綾子舞はその歴史的芸能的価値が研究され、全匡的な民俗芸能の地位を得た
やがて鵜川は過疎化が急速に進み綾子舞の後継者難が深刻化した。その対策がまず、鵜川小中学校の伝承学習であった。そして南中学校区の小中学生に引き継がれている。二つ目は、伝承者養成講座である。市の強力な行政的支援により、国県市の補助事業を実施してきた。
現在は鵜川以外の成人や生徒も活躍しているが、遠くない将来、後継者難が深刻になるのではと危惧される。活発な公演活動は刺激剤であり、踊り狂言の演目の復活、伝承者たちの精進への励みとなってきた。
「綾子舞の芸能・芸態としての特徴とその価植」 須藤 武子
「綾子舞は、「狂言」と「囃子舞」という「踊」という三種からなる芸能ですが、いずれも古い時代をにおわせる演目をたくさんに伝承し、また伝えられた手控本にも注目すべき詞章が豊富に記されており、驚嘆させられます。この三種の芸能をまとめて保持している所は他になく、実に貴重です。なかでも「踊」は他に類似をみない芸態を持ち、綿密に練られた様子がうかがえ、非常に完成度の高いものなので、とりわけ興味を引きます。「踊」は出羽、三拍子、さし、本歌、繰り返しの歌、あいの手、後歌、三拍子、入羽の九つの構成要素に明確に分かれています。また「扇の手」として形づくられ「何々扇」と名付けられている数々のフリがあり、歌の息づかいや流れに対応して巧みに組み合わされています。ここでは実際の動きを考察しながら、「踊」の芸態を主にして綾子舞の特徴こついて気付いたことを述べさせていただきます。
「綾子舞の狂言とその詞章」 林 和利
綾子舞の狂言について、現在伝承されている詞章を取りあげ、その特徴を考えてみたい。『日本庶民文化資料集成』第4巻で、この狂言の詞章を翻亥紹介された近藤忠造氏の解題によれば、「狂言は33番、その内容から、能狂言風のものと地狂言風のものとに大別され、長い年月の間にかなりのくずれはみられるが、ともに古狂言の形姿を伝えている」という。ただし、その起源・由来は不詳である。『天正狂言本』との類似性を探りながら、できれば伝承経路に仮説を立ててみたい。これを考えるとき、綾子舞の演目が『天正狂言本』と共通するのは参考になろう。また、現行能狂言と共通する曲を取りあげて、能狂言諸本との比較分析を行い、古態をどの程度とどめているか探るとともに、室町時代の能狂言の実態を考えるよすがとしたい。さらに、中央の能狂言ではすでに廃曲となってしまったものも取りあげ、古態の考察を深めるとともに、古曲の復原的考察も試みたい。
「出雲お国関係資料の再検討」 和田 修
柏崎市女谷綾子舞の芸能史的意義は、出雲お国らによる「かぶき踊」成立史との関連において論じられているといってよい。しかし、「かぶき踊」の実態については、多くの研究がなされているにもかかわらず、いまだ暖昧な点が多い。今回はお国関連資料の中でも、とくに「かぶき草子」と総称される資料群を他の文献資料・絵画資料と比較して再険討し、以下の点を明確にしてみたい。
(1) お国の「かぶき踊」に名古屋山三の亡霊が登場するという劇構成は実際には存在せず、京大本・松竹本の本文は章子作者の仮構によるところが大きい。
(2) 『歌舞伎図巻』は信憑性の高い資料であり、他の「かぶき草子」とは性格を異にする。
(3) 「ややこ踊」の座は複数あり、お国が「かぶき踊」を始めた頃は十代半ばの年齢であっただろう。
(4) 綾子舞は「ややこ踊」系の芸能が伝来したものである。いまさらいうまでもないことかもしれないが、文献・絵画資料との関連で、あらためて確認しておきたい。
コーディネイタ : 鳥越 文蔵
伝承に尽力された伊東氏、舞踊の視点から評価した須藤氏、狂言を詞章から分析した林氏、お国関係資料の再検討を述べた和田氏、それぞれに興味ある課題を論述してくださったように思う。「歌舞伎図巻」は徳川家の家紋があり、慶長17、8年頃のものであろう。
第2日目 平成15年9月15日(月)
研究発表
「綾子舞廷言の宗教性 ― とくに陰陽道との関連から ―」 渡邊 三四一
綾子舞に伝わる三十余曲の狂言には、天正狂言本はじめ謡曲などにその原拠を求めることが可能なものと、まったく原拠不明とされる作品群が存在する。前者に比べ、後者の研究はほとんど手つかずの状態と言ってよい。ところで、こうした原拠不明とされる作品群を注意深く検討していくと、その主題や物語の構造、さらには細部の展開に、ある共通した宗教的性格を見出すことができる。それは陰陽道特有の知見であり、その独特の祈祷呪術や説話などが素材となったものとみられる。本発表では、これらの作品群に見え隠れする陰陽道的性格を明らかにするとともに、その成立に陰陽師(あるいは陰陽師山伏)系の芸能者が関与した可能性を指摘したい。
「民俗舞踊教育における伝統と今日的意義
― 文字や言葉によらない伝統文化の学習 ―」 近藤 洋子
大学体育教師として民俗芸能に出会い、1968年に実践研究を開始するやいなや、民俗芸能の持つ大いなる力に驚かされた。今までに多くのスポーツ、ダンスを含む身体活動を行ってきたが、それらの経験とは全く違う「充実した体感」がっぎっぎに得られたからであった。わが国にこんなにも素晴らしい舞踊がありながら、日本人なのに日本の踊りを知らないほとんどの人々、舞踊教育者達。一日でも早く学生達に知らせたいと、1970年に体育実技として「日本民俗舞踊」授業を開講し、現在に至っている。
北海道のアイヌ古式舞踊から八重山諸島の芸能まで幅広く取上げてきた。今年度の学会大会地の芸能、綾子舞「小原木踊り」もプログラムの一環、女子中級クラスとして取上げている。民俗舞踊授業が如何なる影響を学生に与えているか、伝統芸能が現代社会に果たす役割は何かを発表したい。
「操法から見た遺跡出土の操り人形かしら」 加納 克己
古代から近世に至る遺跡から、様々な操り人形かしらが、出土している。すでに、別のところで、時代順に発表した事もあるが、まだまだ沢山の出土品があることは、知られていないし、新発見のものも加えてスライドを使って発表したい。さらに今回は、操法から見た遺跡出土操り人形かしらについて、画証や各地に残る人形座の人形かしらにも触れながら述べてみたい。勿論、操作構造の全部が出土している例はなく、操作構造については、推測でしかないが、痕跡から有る程度の推測は可能なので、そうした所見も含め、できれば、新出の資料等にも触れながら発表したい。
資料や伝存品の少ない浄瑠璃以前、或いは近世前期の操り人形かしらについては、こうした遺跡出土の操り人形かしらが、有る程度年代測定ができるだけに貴重なものであり、文献史料の穴を埋めてくれたり、資料としての役割を果たしてくれるのである。
「波野の年祭神楽とその原初形態」 三村 泰臣
山口県玖珂郡本郷村波野で7年に一度行なわれる「山之神」はオルギアスティックな神楽である。山口県内で唯一波野にだけ残存している。筆者は平成14年11月2日にこの神楽を拝見し、その物凄い迫力に驚嘆した。4人の舞手が「ヤマ」という御幣の束を菰で包んだもの(周囲一抱、等身大)の周囲を、雄叫びあげながら乱舞するのである。その乱舞の間、2名の氏子が最後までヤマをしっかりと抱きかかえている。最初は小弓で、次に剣で舞いながら、ヤマの弊串を次々と引き抜いては舞場に叩きつけ散乱させる。参列者は周囲で囃したて、榊の枝を舞手に向けて投げつける。このオルギアステイックな舞は神主の御籤が降りるまで延々と舞い続けねばならないことになっている。御籤が降りると天大将軍による神がかりの舞が奉納される。
研究発表ではVTRを使用してこの波野のオルギアスティックな「山之神」の舞を紹介したい。次にこの「山之神」を西中国山地の神楽全体に位置づけ、その原初形態を提示する。釜が原神楽の「天大将軍」や抜月神楽の「山舞」などが取り上げられるであろう。そうして、中国山地一帯で行なわれていた神楽が何を意図して行なわれていたか、その原点を探ってみたいと思う。
以上
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