令和3年度大会 報告 [2023/03/07 更新]
令和三年度民俗芸能学会大会は11月14日(日)、オンラインで開催された。
研究発表
・角谷 彩子
氏
「現地調査と科学分析に基づく「翁」衣装の研究 ― 山伏神楽・番楽」
民俗芸能は衣装を用いた動作が多いことから、衣装は芸能発生当初から製作および着用されたと考えられる。しかし、衣装は民間伝承という点から実物資料に乏しく、先行研究も少ない。衣装がどのように成立・伝承してきたか、現在もその実態は明らかでない。報告者は、衣装の製作(技法・材料)と意匠(模様・形態)の二観点から、記録資料の蓄積および相互比較を目的とした民俗芸能衣装の調査を行ってきた。本発表では、東北地方に伝わる山伏神楽・番楽の「翁」の衣装を対象とした調査結果について報告する。
山伏神楽・番楽の翁の扮装は上衣・下衣・翁面・烏帽子から構成される。本研究では主に上衣・下衣に対して (1) 実地調査(聞き取り、衣装の確認)(2) 衣装調査(目視、顕微鏡観察)(3) 科学分析(蛍光Ⅹ線分析、クロマトグラフィー法)(4) 検討考察(結果の照合と比較)の流れで調査を行った。
調査の結果、地域や芸態の近い芸能は、衣装および道具も類似する傾向にあることが分かった。衣装の形態は地域によって分かれており、古布を使った衣装を除き、模様もほぼ類似する。一方で、地域や芸態の異なる芸能間で衣装が類似するケースも確認された。地域によって衣装道具の特徴が分かれる現象は、芸能の伝播過程が関係する可能性が考えられる。また異なる芸能間で衣装が類似する理由は、昔は広範囲にわたって衣装が統一されていた、あるいは模様などに共通の決まりがあったことが推測される。
番楽は江戸後期~明治期の衣装が残されていたが、山伏神楽は明治期以降の衣装が多く、古いものは少ない。衣装は染物が多く、ほかに織物や古布を使ったものが確認された。染色技法は描絵と筒描で、顔料と藍で着色された衣装が多い。衣装を新調する際に、前の衣装の模様を模すため、フリーハンドの技法が用いられた可能性が高い。上衣の模様は鶴亀松のものが複数あることが分かった。鶴亀松は翁の詞章に登場し、番楽においては模様と詞章に関連性が確認された(太平山麓の番楽の上衣は鶴亀松模様で、詞章に鶴亀松が登場する。鳥海山麓の番楽の上衣は鶴亀松模様でなく、詞章は鶴亀が欠けるところが多い)。
山伏神楽・番楽の翁の衣装は、能楽「三番叟」の衣装と形態や模様が類似する。能楽の衣装は、三番叟が紺や青地に鶴亀松模様の直垂と揃いの袴、翁は蜀江文様の金襴狩衣と指貫である。山伏神楽・番楽の翁は、芸態・詞章共に能楽の翁との関連性が認められるが、衣装の形式は大きく異なる。能楽の翁でなく三番叟の衣装と類似する理由は、他演目からの衣装の流用や詞章との関係が考えられるが、更に調査対象を広げて検討する必要がある。
・矢嶋 正幸氏
「神楽裁許状について」
神祇管領長上家の吉田家は、徳川幕府が寛文五年に制定した神社条目を根拠として、全国の神社・神職をその支配下に置いた。その支配は神主だけにとどまらず、神子に対しても千早舞衣の着用や神楽秘文の裁許状を発給している。
さて、吉田家が発給した裁許状の中に、神楽役等に宛てた通称「神楽の裁許状」というものがある。埼玉県内では、玉敷神社や貴布祢神楽のものが神楽調査の文献資料といったかたちで、早くから紹介されてきた。しかし、これらの裁許状は、当時から神楽が伝承されていた証拠であるといった紹介がなされるぐらいで、どのような性格の文書であるのかまでは検討されていない。
各地の「神楽の裁許状」を見比べてみると、かなり差異があることに気付く。文政五年、玉敷神社の神楽役青木左近に発給されたものは、差出が「神祇管領」で「年中之祭式着風折烏帽子狩衣」を許可するものになっているのに対し、文化13年、貴布祢神楽の神楽役萩野富五郎に発給されたものは、差出が「神祇管領長上家 御役所」で「神事限当日着亀甲烏帽子浄衣」の許可となっている。これは定型化されている神子や神楽秘文の裁許状とは異なる特徴である。また、現在確認できている「神楽の裁許状」は、享和元年から文政10年という年代に集中していること、東京・埼玉・栃木という地域に限定されていることも特徴として挙げられる。
関東地方での演劇的内容を持つ神楽の成立は、文化文政頃と推定されているが(西角井正慶『神楽研究』)、「神楽の裁許状」が発給された時期と神楽の芸態変化が起きた時期がほぼ同じであることには、共通した背景があったと考えるべきだろう。
本発表では、現在までに確認できている「神楽の裁許状」を紹介し、その発給の経緯や文書形式の違いについて考察をすることで、関東地方の神楽研究の一助としたい。
・松見 正一氏
「式三番芸能と吉田神道との関係をめぐって
― 『翁之大事』伝播事情を中心に ―」
平成以降の能楽史研究で、いわゆる式三番と『翁之大事』との関係が注目され、諸氏により多様な角度から考察が進められてきた。その結果、式三番を演ずる猿楽師と吉田神道(唯一神道)との関係が次第に明らかになってきている。
『翁之大事』とは、江戸時代に吉田神道宗家である吉田家が諸国の神事で翁舞を演ずる役者(翁太夫)に授与していた秘伝書である。吉田家の祖・兼倶の秘伝を当代宗家が書写して授与するという体裁をとり、その内容は、(1) 翁舞の起源、(2) 翁面の由来、(3) 式三番と三神思想との相関等、に加えて、「舞台図」と称する逆三角形の図が添えられたものである。発行時期は江戸前期から幕末までの長期間にわたり、これまで西日本を中心に、神事として式三番芸能を伝承する(または過去伝承していた)神社や社家に存在が確認されている。
能楽の一史料として捉えられがちな『翁之大事』であるが、その所在地によっては、歌舞伎系式三番や人形式三番のみが伝承され、猿楽系式三番が演じられた形跡が確認できない場合がある。また、一般に吉田神道は神仏習合を否定したことで知られているが、明治初頭の神仏分離まで神仏混交を旨とした修験系の芸能として翁舞が行なわれていた土地で『翁の大事』が発見された例もある。
こうした点から、純粋な能楽に限らず、民俗芸能としての式三番芸能の伝承とからめて『翁之大事』を考察し、発行元である吉田神道の江戸時代の実情や諸国の神事芸能への影響力などを探る必要があろう。そのためには特定地域の枠を超えたマクロ的視点に立ち、縦断的に『翁之大事』を捉え直すべきであることを指摘したい。
本発表では『古本能狂言集成』(臨川書店)所載の狂言大蔵流宗家所蔵『翁之大事』本文を基準としつつ、郷土誌等で活字翻刻されている各地の『翁之大事』の中から、兵庫県香美町一日市金刀比羅神社・福井県池田町稲荷諏訪阿須疑神社・東京都檜原村小沢伊勢清峯神社を比較検討例として採り上げ、さらに若干の補助資料を添付することを予定している。
・門傳 仁志氏
「見世物小屋『探訪』が通過儀礼だった時代(ころ)」
知と情と意という古くから説かれてきた心意にかかわる三つの原則の中で、日常生活の多くの活動は知や意といった他人にもよく分かるやりかたで構成されている。ところがこと芸術に関してのみはそうではないと言うことになる。まず例として現代詩があろう。細かな心意の襞が書き出されるがそれは個人的な種類のものである。まただからこそ他人に驚きと感動を生み出す。しかし、驚くべきはこの詩の感覚が伝承されることである。つまりまったくもって私的で個人的、個別的な原理原則で成立するのみならず、さらにこれが「知」として伝承されるのを見ることになる。それは民間治療と同じく外在的な観点からはとらえられない。いや、時に奇異の視線の対象にさえなる不思議な人間の創造物である。
たとえば一種の伝統芸能で「花」といわれる境地が説かれるのを我々は知っている。それは、心意の中で長らく構築されたひとつのピーク経験ではあろう。この時、演者は一種の生理学的な規制のもとにある。アドレナリンの効果なのかもしれない。しかし、彼はこれを心意のもとでの「自分の科学」として解する。では見世物小屋はどうだろうか。
見世物小屋は小沢昭一、寺山修司などの早稲田大学の芸術によってそれぞれ「探訪」、「見世物の復権」といった言葉で説かれてきた。もっとも、彼らはこのような「科学」にまで立ち入って検討してはいない。発表で共有したいのはひとつの事実である。見世物小屋においても、この心意の伝承が「あった」。伝統芸道における「花」に等しい見世物小屋の「情」について、報告を行ってみよう。東京都町田市の大寅興行社は最後のタカモノ(仮設興行)として見世物小屋の精神を今日に伝えてきた人たちである。小沢昭一が「見世物小屋」として取り上げ、ライスカレーを食いマージャン卓を囲んだ音源が残る。彼らと団子家興行社(安城市)のもとで過ごした頃、筆者は彼らの科学の片鱗に接することができた。自らの人生を一種の因果と説くその想像力然り、ショウバイを楽しみととらえる視点然りである。団子家のオヤカタはここ秩父でのショウバイを最後にオヤカタとしての生涯を終えた。そのため筆者にはまことに記念すべき発表になる。もっとも最後は筆者の科学である。
シンポジウム
テーマ「民俗芸能調査研究の体験的手法と分析」
司会:宇野 正人 氏
「印象で語るな、資料に基づいて語れ」。再分析可能な資料を研究の基にするのが近代科学の基礎とするなら、その基となる資料を作成する場合、研究者同士共通の認識が必要になる。伝統あるいは伝承された文物は、常に時代の変化に晒されてきた。そして、消滅、あるいは残存してきた。
現在の日本には、伝統あるいは伝承されてきた文物が多く残されている。これ自体、世界では稀な事で、誇って良い事だと思う。しかし、現在、それら文物が消滅の危機に晒されている。それら文物を研究対象とする分野において、どのような手立てを講じるのが良いのかどうかを考慮する必要がある。 この問題は一朝一夕で解決する問題ではない。しかし研究を志す者が向き合わなければならない問題でもある。その一助として、本シンポジウムが開催される。
・パネリスト:久保田 裕道
氏
「民俗芸能の体系的把握を目的とした芸態研究の可能性」
民俗芸能の調査研究に関して、体験的手法といえるだけの経験は未だ積んでいないが、本シンポジウムでは、まず現在どのような調査研究が必要とされているのかということから述べてみたい。
今年度より改正された文化財保護法に基づき、無形民俗文化財に「指定」に加えて「登録」という、やや緩い保護制度が実施されるようになった。これに基づき、今まで以上に多くの民俗芸能が保護対象とされることになろう。しかしその際に保護対象とする基準があるのかといえば、明確な指針はない。さらには分類についても、本学会でも幾たびも取り上げられ、本田安次分類の検証も繰り返し行われてきたが、新たな基準を作るまでには至らなかった。
こうした基準づくりは、学術的に正確におこなおうとすれば、さまざまな観点から膨大な民俗芸能を検証しなければならず、現実的には難しいと言わざるを得ない。
しかし一方で、現在は全国各地で地域の民俗芸能の体系的把握が進んでおり、そうした知見を集約することによって、保護対象の基準や分類を提示することは可能ではないかと考えている。しかしそのような分析をする際に、研究が著しく遅れている分野がある。いわゆる「芸態」分野の研究である。
文字や図による芸態の記録は、映像記録の普及とともに衰退し、その結果民俗芸能という動態の伝承を客観的に把握する術を失ってしまったといえよう。けれども芸態の類似は、複数の民俗芸能の体系的把握には欠かせない視点となる。例えば、こちらとあちらの芸能が似ているかどうかという比較検討は、伝播などの歴史的要因や音楽・詞章の比較といった検討に加え、最終的には芸態の比較によって客観的におこなわれるべきであろう。
さらには芸能の「美」の部分の把握にもまた、芸態研究は欠かすことができない。伝承者レベルでは継承されている「美しい所作」を客観的に示すことは、継承面での重要な記録となろう。
本シンポジウムでは、そうした問題提起をしたいと思う。未だ有効な手法を示すことができるわけではないが、民俗芸能の体系的な把握を目的とした芸態研究の可能性を探ってみたい。
・パネリスト:茂木 栄
氏
「民俗芸能調査研究の手法 ― 祭・芸能をただ見ていたい ―」
大学時代に単独山登りにはまっていた時期があった。私が初めて遠山に入ったのは、天龍川を遡ってではなく、遠山川を山から下りてきてのことだ。
その時は、北岳から登りはじめ、南アルプスを塩見岳・荒川岳・赤石岳と縦走し、大沢岳から下山する途中、遠山森林鉄道の廃線跡を遠山川沿いに、疲れ果ててヨロヨロと歩いていると、軽四輪トラックに乗ったおじいさんに声をかけられた。聞けば遠山出身の馬喰だという。近江との間を行き来しているという。バス停のある木沢梨本まで乗せてもらった。
その時、遠山には霜月祭という神楽中心の祭りがあることを知った。私の民俗芸能調査研究の始まりは天龍川中流域遠山の霜月祭の調査からであった。
大学院時代の最初の調査が遠山だった。調査というのもおこがましいほどに、稚拙なものだった。参与観察を気取って、祭準備の人の動きを見ていた。どのように調査したらよいのか全くの試行錯誤の始まりであった。調査の手引書は少ないながらも存在したが、ほとんど役に立たなかった。私を本格的調査に導いてくれたのは、当時すでに学外で活躍されていた先輩の宇野正人氏であった。
儀礼研究の理念と哲学を教えてくださったのは、宗教学者の薗田稔氏であった。薗田氏の周りには、優秀な若手宗教学者たちが多く集まっていた。
私の研究領域は彼らと一線を画して民俗学的儀礼研究と定めた。私の民俗芸能研究は、言うなれば民俗学的芸能研究、祭研究の構成部分としての芸能の研究。言い換えれば祭の中での芸能の位置付けと関係性を考えるという立場をとるようになった。それで仲間内の議論の中から考えた調査視点を『民俗芸能研究』第8号(昭和63年11月)に書かせていただいた。
小寺融吉は昭和の初めに民俗芸能の調査項目を公にしている。
(1) 芸能を行なう場所と名称、(2) 次第、(3) はやし、(4) 参加者、(5) 物忌、(6) 仮面、(7) 舞、(8) 衣装・採り物・被り物、(9) 注連と幣束、(10) 歌ぐら・歌謡というものである。
具体的なものの調査を志向していたことがわかる。
私の習得した体験的調査方法というのは、やはり物から見える儀礼の意味するものの追究だったように思う。私が行なってきた調査というのは(これは長い間調査研究を共にしてきた薗田稔氏・宇野正人氏他の研究者から学んだものと思う)、インテンシブ調査として (1) 空間構成、(2) 心意伝承、(3) シンボル媒体、(4) 儀礼構成、(5) シンボル行動、(6) 行動規範、(7) 動員の方法、(8) 関与組織、これらに組み合わせてインテンシブ調査として、(1) 祭・芸能のタイプとバリエーション、(2) 祭・芸能の分布と伝播経路、(3) 芸能の普遍性と地域の独自性など鳥瞰的な比較の視点が必要となった。
発題者としては、長い間、間歇的に特定地域を見てきて分かる凄まじい変化、山村の生活の都市化と過疎。日本社会の変化を把握しなければ、民俗芸能の基礎的な一定の調査法も確立することもできないのではないか。
・パネリスト:野村 伸一
氏
「東アジアの巫と儺の祭儀 ― 祭祀芸能の源流に学ぶ」
東アジア(朝鮮半島からインドまで)には今なお巫覡の祭儀、また共同体の秩序維持と係わる祭儀(儺)がある。これらは人の世の苦難、死者への慰霊、明日への祈りと係わる。そこには地域特有の神、仏がいて一定の儀礼、歌・舞、語り(神話、物語)がある。それは祭祀芸能の活きた現場でもある。
祭祀芸能を探究して35年余り。この間、学んだことは多いが、とくに次の事例は忘れがたい。
(1) 韓国済州島の神クッ(1986年10月13日~26日)
(2) 韓国全羅南道の農楽(1987、1988、1996)
(3) 中国貴州省徳江の儺堂戯(1995)
(4) ミャンマー、マンダレーの祭儀(1993、1994)
(5) インド、ラダックの正月と寺院儀礼(1992、1992~93年)
(6) 南部テイヤム、ブータ祭儀(1991、1996)。
(1) では二週間、神房の家に寝泊まりし、数々の儀礼とその合間の談話に耳傾けた。
神や祖先の本解ポンプリ、その歌唱、巫覡戯、祖先霊の供養(十王迎え)等、芸能の源流を観る感があった(『韓国の民俗戯』1987、『仮面と巫俗の研究』1999[共著]、『東シナ海祭祀芸能史論序説』2009などで一部報告)。
(2) では年初の農楽隊が神と村人の間で平安を祈り秩序維持をはたす。これはシチ(八重山)にも通じるもので郷儺といえる。
(3) は土老師(巫者)による家祭で子の生育儀礼(過関)を含む。それは道教基盤の儀礼だが、巫俗としての普遍性がある。
(4) では村の廟祭および女装した男巫による巫儀を観た。廟祭の熱狂と精霊を祀る巫(ナッナップエ)儀は韓国の굿(クッ)に通じる。
(5) はチベット文化圏の寺院の仮面儀礼チャムと村の正月儀礼である。チャムに参与する媼(アビ)、翁(メメ)は寺僧の下位に位置する一方、村を巡る。各家で祝福し、広場では滑稽な演戯をみせる。
(6) は異装の神がみの顕現と祝福。以上の事例には東アジアの巫・儺文化の連鎖、共通の基軸が窺える。
総括と伝言
一、初心は祭の当事者と寝食を共にし芸能の源流、淵源に触れること。芸能は祭祀体系、また社会の表層・「花」という認識。
二、他者の視点、基軸の必要性。個人的には韓国の굿(クッ)文化との不断の対照で東アジアへの視界が開けた。
三、時分に応じた比較観察。初心に戻り「何のための芸能か」を問うこと。時時(ときとき)の初心、また老後の初心、不可忘(わするべからず)(世阿弥『花鏡』)。
・パネリスト:森尻 純夫
氏
「「早池峰神楽」から南インド「歌舞劇ヤクシャガーナ」「慿霊儀礼芸
能ブータ」に至る」
一、昭和50(1975)年、はじめて早池峰神楽を観賞する。8月1日の早池峰神社祭礼に立ち会った。
まず、その強烈な太鼓の演奏に文字通り吃驚した。演者は、岳流とその弟子座だった。
祭礼の二、三日以前、大迫町大償に入り、神社別当家にお世話になって、稽古を見学していた。胴鼓が演出の役割をしていることは、すぐに理解した。しかし、岳流の実演を目の当たりにして、〝衝撃〟を味わった。
子どもの頃から、育ちの地域性もあり、歌舞伎や能に親しんできたが、地方の歌舞が持つ地の力に圧倒された。
幕外からの笛、チャッパと呼ぶシンバル( 手びら鉦) の均衡のとれた演奏に演者の烈しい舞いが導きだされる。そして、かつての日常を逸脱しない衣装、被り物、仮面など、必死で吸収する日々を過ごした。
二、帰郷後、発見者である本田安次氏の著作を漁り、その他の関連し記録された文献を渉猟した。
そして、本田先生が、学部で講義をおこない、それを聴取したことを記憶の底から掘り出した。本田先生の生涯を決する発見であったことを再認識した。折に触れて早池峰を訪ね、上演の機会を追った。周辺の弟子座の所在地を求め歩いた。
やがて、神楽座が、「旅する」集団であり、職能としての神楽演者であることを知った。
旅する芸能であることが、間口・奥行きの狭い小さな空間に多人数の舞手を擁することを知ったと同時に、なぜ小空間なのかを「芸能の論理」として理解しなければならない、と強く感得した。
三、ほぼおなじ時代(昭和50、1970年代)に韓国、中国に、赴く機会を得た。さらにインドの歌舞劇ヤクシャガーナを観賞することができた。
女性舞踊バラタ・ナティアムをはじめ、カタカリなどの四大古典といわれるものは、すでに知っていた。その上に南インド・カルナータカ州を拠点とするヤクシャガーナに出会ったのである。
1990年代のはじめ頃、インド・カルナータカ州のカンナダ大学に乞われて、客員教授になり、その三年後、日本でのすべてを清算してインド中心の学びと調査の生活になった。
以上
お問い合わせ先
- 民俗芸能学会事務局(毎週火曜日 午後1時~4時)
- 〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1 早稲田大学演劇博物館内 [地図]
- 電話:03-3208-0325(直通)
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